関東の武将「秋元長朝」

口天文十五年(一五四六)生
口寛永五年二六二八)没
秋元氏は下野宇都宮氏の庶流。

上総国秋元郷が本貫。

同国守護犬懸上杉氏が禅秀の乱で失脚後、武蔵深谷上杉氏に仕え、「四天王」の一といわれました。

長朝は景朝(元景)の子、深谷で生まれる。

母は関東管領上杉憲政の養女。

孫四郎(忠四郎)・越中守を称す。

河越合戦後、憲政が越後へ去り、後北条氏との間で動揺した上杉氏憲は、上杉謙信の死後、北条氏政の娘を妻とし、秀吉の小田原征伐に同城へ籠る。

留守居の長朝は、子泰朝を小田原に送りました。

鉢形城攻めの前田利家・浅野長政が深谷城を攻め、開城した長朝は長政と同国忍城攻めに加わります。

井伊直政の口ききで徳川家康に仕え、関ヶ原合戦で上杉景勝への使者を勤めた功で、慶長六年(一六〇こ、六千石を加増され、上野総社一万石の城主となります。

大坂両陣にも参加。

新田開発など民政に努力しました。

元和八年(一六二二)致仕し、寛永五年、八十三歳で没しました。

北海道・東北「葛西晴信」・・・その5

天正十八年、豊臣秀吉の小田原の陣には、晴信は参陣を果たすことができず、ついに所領没収の憂き目にあいました。

参陣の配慮を失ったのは、領内の争乱鎮定に日時を費やし機を失したためといわれるが、大局観を欠き情況判断の甘さに根本原因があったのでしょう。

葛西氏「葛西真記録」などでは、豊臣仕置軍に対して華々しく抗戦し、晴信は戦火の中で自刃したと伝えられます。

しかし「大崎実記」にみえる―将軍の御勢に向かい一戦すべきようなく、同八月おちうせにける―とあるのが正しく真相を伝えたものであろうといわれています。

晴信は加賀藩に流浪し、慶長二年四月十九日彼の地で没したといいます。

北海道・東北「葛西晴信」・・・その4

永禄三年(一五六〇)没の兄・十六代親信に代わり、永禄元年より当主の座に就いていました。

時に二十五歳。

晴信は一に信清、晴清、従五位下、左京大夫、壱岐守、相模守。

晴信が相続した戦国期は、葛西家にとっても内憂外患の時代でもありました。

外にあっては領界を接する大崎氏(大崎義隆)と競り合い、内にあっては巨大化した家臣団の抗争の鎮圧に明け暮れる毎日でした。

大崎氏との国境戦は元亀年間、栗原郡方面を中心に多発しました。

概して葛西氏は優勢で、栗原、登米方面の大崎勢を駆逐したのみならず、『葛西実記には大崎領の遠田郡まで攻め入ったとしています。

晴信治世の後半は、支族、有力家臣らの侵略抗争を調停、融和に奔走しています。

一例を挙げると、流庄寺崎良次と三迫の富沢直綱の交戦(天正七年〈一五七九〉)、胆沢郡の豪族柏山兄弟の軋礫(天正九年)、九戸政実の北上東部への侵入による小野寺宗道の敗戦(天正十年)、本吉大膳の叛乱(天正十四年)、浜田広綱の本吉郡侵攻(天正十六年)など枚挙にいとまがない。

ディエジェシス的

テクストの虚構世界に属するとみなされるものをディエジェシス的なもの、そうでないものを非ディエジェシス的なものとすることによって、その2つを区別することのできる便利な批評用語である。

両者の区別を通常はつけやすい映画音楽を例にして言えば、映画の虚構世界内に存在しており出所がはっきりしている音楽、例えばラジオあるいはジューク・ボックスの音楽は、デイエジエシス的である。

だが他方、サウンドトラックの音楽は非ディエジェシス的である。

映画の映像について言うなら、映像がディエジェシス的であること、つまり、映画の虚構世界の一部であることが(間違いなく大半のイリュージョニズム的な虚構映画にとっては)一般的基準であろう。

しかしながら、反イリュージョニズム的な映画製作においては、非ディエジェシス的な映像が、象徴的・隠喩的な目的に役立つことがある。例えば、セルゲイ・エイゼンシュテインは、『ストライキ』(1924)の最後に登場する労働者の大虐殺のシーン中に、屠殺される一頭の雄牛のショットを挿入している。マシスによると、このカットは、主筋と物語的には関係はないが、労働者たちの運命の隠喩として機能している。ジャンHリユック・ゴダールのような監督は、非ディエジェシス的な要素(本の表紙、無関係な映画のシーン、現実のインタビュー)を、距離化を図る反イリュージョニズム的な手段として映画に挿入する。

確立した慣例ではあるが、映画のクレジットが同じく非デイエジェシス的であることに疑いの余地はない。

北海道・東北「葛西晴信」・・・その3

「仙台系図」「盛岡系図」と二つに分かれ、相容れぬ形で系譜が伝承される所以は、この時代の根強い家臣団の対立を象徴的に物語っています。

登米竜源寺「小野寺系図」によると天文五年、十五代晴胤の代に石巻城から寺池城(登米郡登米町)に本城が移されました。

これは伊達氏の武力を背景に、石巻、登米二系が大同合併されたことを意味するものでしょう。

登米町には北の寺池城の他に南の山に保呂羽城あとが確認されました。

保呂羽城は瞼山に拠る要害なのに対し、寺池城は平凡な小丘にすぎません。

ここは行政庁。

したがって寺池城とは両城セットとしての総称てあろう十七代を相続した晴信は、十五代晴胤の異腹の三男と伝わります。

北海道・東北「葛西晴信」・・・その2

室町時代前・中期における葛西史には不明の点が多く、系譜の錯雑が見られ、大別すると「仙台葛西系図」と「盛岡葛西系図」の二系に分類できます。

応仁の乱の余波で領内にも有力家臣団の抗争が相次ぎ、明応年間に薄衣美濃入道(盤井郡薄衣城主)が伊達成宗に宛てた「薄衣状」によると、領内ば大崎探題派と葛西当主派に分かれ、国を二分して争いました。

のち親探題派が軍事大国の伊達氏を頼み、宗清(伊達成宗の子)が葛西氏十三代を継ぎ石巻城に入ったことで、"親伊達""反伊達"の二大勢力へと変わり、領内抗争はしばし続きました。

『桃生山内伝』に見える永正年間における桃生郡主山内首藤氏と石巻系葛西氏との決戦も、前図式の上で考察できます。

北海道・東北「葛西晴信」・・・その1

戦国大名。

陸奥寺池城主。

葛西氏十七代目、最後の当主です。

葛西氏は祖を平氏葛西三郎清重に発し、文治五年(=八九)の平泉征伐の軍功で葛西七郡、胆沢、江刺、磐井、気仙、牡鹿、本吉などの諸郡を得、分限は三十万石と称されました。

嫡流家の奥州移動は四代清経の鎌倉時代末期と考えられ、初期の居城は石巻城(石巻市)でした。

南北朝抗争期に活躍した六代清貞は南朝に尽忠し、北畠顕家亡きあと、石巻城を南朝方の基地となすべく画策したと伝えられます。

その死によって雄図挫折し、南軍は北奥の滴石城(岩手郡雫石町)に撤退して行きました。

石巻地方の板碑紀年を見ると、興国四年(=二四三)をもって北朝方に転じたことがわかります。

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