関東の武将「上杉定正」
口嘉吉三年(一四四三)生
口明応三年二四九四)没
鎌倉扇谷に居館をもち、永享の乱で活躍、乱後に相模守護となった上杉持朝の子。
五郎・修理大夫を称しました。
享徳の大乱で古河公方成氏に対し、幕府は持朝に江戸・河越・岩付三城を築かせ、南武蔵も領国に加えられ、関東管領家山内上杉氏と勢力を伯仲しました。
この乱で顕房・政真父子が討死。
文明五年(一四七三)、弟定正が家督を継ぎます。
上杉顕定が同氏の家宰長尾氏の処遇を誤り、長尾景春が叛しました。
定正の家宰太田道灌は各地に奮戦し、この乱を鎮定。
同十年、成氏・景春は上杉方と和睦。
定正はこれに異見をもち、道灌が江戸・河越両城を修理したのを、顕定から訴えられ、同十八年、相模糟屋館(伊勢原市)に道灌を誘い出して殺しました。
事件後、顕定と定正は同国実蒔原・武蔵須賀谷原・高見原で激戦(長享の大乱)。
延徳元年二四八九)、江戸城代曽我祐重に、顕定と争うに至った由来を書き送った定正状は有名です。
養子朝良に家督を譲ったが、明応三年、顕定と高見原で対陣中に急死しました。
法名は護国院大通範了。
朝興は北条氏綱に江戸・河越・岩付城を落とされ、朝定のとき同氏は滅亡しました。