関東の武将「足利晴氏」
口永正五年(一五〇八)生
口永禄三年(一五六〇)没
古河公方高基の子、母は下野宇都宮成綱の娘。
幼名は亀若丸。
政氏と争った子高基が宇都宮館にいたとき生まれます。
大永元年二五二一)、高基の意向で亀若丸と北条氏綱の娘(芳春院)が婚約しました。
享禄元年(一五二八)、越後の長尾為景があっせんして、亀若丸は将軍義晴の一字を賜り、晴氏と名乗ります。
天文四年(一五三五)、高基が死去。
叔父小弓御所義明・基頼が勢力を増すのを恐れ、北条氏綱を頼り、同七年、氏綱は下総国府台で戦い、義明父子は討死。
天文十四年、北条綱成の武蔵河越城を攻撃した上杉憲政は、晴氏に参陣を頼み、ついに憲政方に加わりました。
敗れた憲政は上野へ逃れ、晴氏は下総古河城に帰りました。
同二十一年、芳春院との間に生まれた梅千代王丸(義氏)に家督を譲った。
同二十三年、北条氏康に反抗して古河城に籠った晴氏・藤氏父子は、捕らえられて相模秦野に幽閉されました。
のちに下総関宿城で死んだ。
宗英寺(関宿町)に墓所があります。