北海道・東北「葛西晴信」・・・その4
永禄三年(一五六〇)没の兄・十六代親信に代わり、永禄元年より当主の座に就いていました。
時に二十五歳。
晴信は一に信清、晴清、従五位下、左京大夫、壱岐守、相模守。
晴信が相続した戦国期は、葛西家にとっても内憂外患の時代でもありました。
外にあっては領界を接する大崎氏(大崎義隆)と競り合い、内にあっては巨大化した家臣団の抗争の鎮圧に明け暮れる毎日でした。
大崎氏との国境戦は元亀年間、栗原郡方面を中心に多発しました。
概して葛西氏は優勢で、栗原、登米方面の大崎勢を駆逐したのみならず、『葛西実記には大崎領の遠田郡まで攻め入ったとしています。
晴信治世の後半は、支族、有力家臣らの侵略抗争を調停、融和に奔走しています。
一例を挙げると、流庄寺崎良次と三迫の富沢直綱の交戦(天正七年〈一五七九〉)、胆沢郡の豪族柏山兄弟の軋礫(天正九年)、九戸政実の北上東部への侵入による小野寺宗道の敗戦(天正十年)、本吉大膳の叛乱(天正十四年)、浜田広綱の本吉郡侵攻(天正十六年)など枚挙にいとまがない。